諸々所感

ネタバレ少なめ考え重め

高野山

独立国家

 

高野山は独立した国のようだった。パスポートはいらなかったが、高野山駅は関所のように入ってくる者を見つめている。電車で高野山に向かう道のりは険しい。山のへりを沿うように進み、眼下にはぽつぽつと民家が見えるだけである。狭い道、古い建物、ならず者がたどり着いた国境付近の辺境の地か。極楽橋でケーブルカーに乗り換えると、60度はあるのではないかという傾斜をゆっくり上っていく。とてもこの先の山に人工物があるとは思えない、ただの森だ。関所で改札を抜けると、地図や観光案内の立て看板の前で、数人の男が出迎えをしてくれる。なにかの映像で見た中東の空港でのタクシーの客引きを思い出した。しかし彼らはタクシーではなくバスを進めてくる、南海電鉄の職員。「今日は雨やし寒いですね、昨日までぬくかったから余計にこたえますわ」和歌でも詠んでいるのかと思うくらい流れるように話す。高野山に来るのは南海電鉄のみ、高野山内を走るのも南海電鉄のバス。私鉄は終点に観光地をもつものだが、近年の高野山の人気ぶりは南海電鉄によるところも大きいのかもしれない。駅から高野山の中心部まではなかなか遠く、歩くには厳しい。国境のすぐ隣に役所などの重要な機関を置く国などないのだから、当然といえば当然である。

 

山道を10分ほど進み、右折すると街に入った。ただの右折ではない。山のへりを電車で進み、急こう配を上った先の、ひとけどころか歩道すらもない山道を、右折した先に街があるのだ。あることがわかっていたから、駅は国境だったが、知らなければただの検問所だっただろう。でもあった。確かに街が。コロンブスがアメリカ大陸を発見したときの100分の1くらいは感動したと思う。こんなところに街があるはずがない。しかも開山されたのは遥か昔の話である。地図で見れば、山の中のちょっとした広場といった土地に街があり、独自すぎる文化が根付いていた。

 

 

高野山は観光地であって、観光地ではない。いや、独立国家に観光地か否かを問うこと自体が間違いか。バスで奥の院前まで向かう雨の車窓からはカラフルな荷物を背負った外国人が目についた。寺が立ち並ぶ横できれいに舗装された道を歩く様は、山を下った先の古都と大差ないように思える。しかし眼下に生い茂った緑がうつると、ここが果てしない山の上だということに気づかされる。こんな土地で他の場所と同じような光景が見られることが何より不思議かもしれない。バスを降りると、巨大な2棟の石碑の間に参道が続き、その両脇に背の高い針葉樹林が見えた。そんじょそこらの神社仏閣ではないぞ、という風格がビシビシ出ていた。参道を進むとお墓ゾーンに入る、とはいえ企業の大きく新しい墓が目立ち、神聖という雰囲気からは離れる。しかし奥の院に近づくにつれて墓石の汚れや苔の量が増えていく。木のせいか、天気のせいか、日の光も弱くなる。いよいよか、という橋の手前に「この先は傘や帽子を外し、携帯電話を使用しないこと」という立て看板があった。御成敗式目もこんな風に書いてあったのだろう。

 

正面の建物の前で参拝を済ませると、左に道があり建物の奥へと進む。その際に左の奥の方で法事と思われる6人くらいの喪服と僧侶が目についた。ここは今でも死者を供養する場所で、平地では形式だけに思ってしまう死後の世界も成仏も、この人たちは本気で願っているのだろうと何故か感じた。建物の真裏に来ると、右手に遺骨入れと思われる金色の無数の箱、左手にろうそくや線香をあげる台が並んでいた。ろうそくを買い、台に立て、手を合わせる。ろうそくと線香の違いは知らなかったが、火が消えないろうそくをあげることで弘法大師がまだ生きていることを信じていると伝えたいと思った。正直、しきたりも思想もほとんど知らないが、この土地が弘法大師により作られたという事実だけで参拝には十分だった。

 

そのまま進むと地下に手のひらサイズの仏が大量に保管されていた。1つ1つに名前が書かれており、その前で手を合わす人の姿もあった。法事の団体もそうだが、日本人の本気の信仰とはこんなに切実なものかと初めて知った。とにかく本気で必死で切実だった。平地で形式的なものばかり見ていた。ただそれは当たり前なのかもしれない。飽和社会の日本に切実に信仰する理由などほとんどないからだ。多くの人は赤点にはならない生活を繰り返し紡いでいる。切実な信仰をするほうがおかしいと思われることだって少なくない。そういう意味では、この独立国家は周囲の目を気にせずに切実な信仰を捧げられる数少ない場所なのかもしれない。

リメンバー・ミー

 

  家族か夢か

 

 

音楽のために家族を捨てたひいひいおじいちゃんのようになってはいけないと、音楽と関わることを一切禁止されているミゲルの家系は代々靴職人で、先祖を大切に祭って大勢の家族で仲良く暮らしている。ミゲルも靴職人になることが求められていたが、彼の夢は伝説のミュージシャン、エルネスト・デラクレスのようになることだった。死者の日に街で開かれる音楽コンテストに出場するため、ギターを手に入れようと墓から盗んだことでミゲルは死者の国に迷い込んでしまう。人間の世界に戻るためには家族の許しが必要だったが、死者の世界で出会ったミゲルの家族も音楽嫌いで受け入れてもらえない。それならばと、ミゲルはひいひいおじいちゃんを探しに行く。

 

 

音楽のために家族を捨てたひいひいおじいちゃんを憎む一族は、音楽は家族と両立できないと思っている。音楽や夢は家族を不幸にするものだ、と。なにが幸せかということは個人の価値観によるもので一概には言えないが、家族みんなで安定した生活を送ることを幸せというならば、音楽や夢は必要ない。収入を得られる職業と、家と、食事とがあれば十分で、夢なんて寝て見るだけでいい。夢を叶えて職業にすると考える人もいるかもしれないが、それができるのはほんの一握りで、できたとしてもいつ失脚するかわからない不安定さからは抜け出せない。夢をみて、それを追いかけることは安定した家族生活を捨てることと同義だ。音楽や夢が家族を不幸にするというのは理解できるし、理解しなければならない。良くも悪くも、それほど夢を追うことのハードルは高い。どれだけ機械化が進んでも、どれだけ働き方が多様化しても、表現を職業とするには特別な才能が必要なのだろうか。他の動物にはできないことだからこそ、人間の表現はどんな理由にも邪魔されないでほしい。

 

 

ただ、家族には2つの方向がある。映画のなかでは同じものとして描かれていたことが終始気になったが、生まれた家族と生み出す家族は性質が全く異なる。子供として生まれる家族は選べない上に、不可抗力でありとあらゆる影響をうける、そして多くの人に生まれた時から存在している。一方で、結婚し子供を出産してつくる家族は自らの意思ですべてを決めることができる。結婚するか、誰とするか、子供を作るか、何人作るか、決定するのも責任を負うのも自分自身である。

 

映画の中でひいひいおじいちゃんが不幸にしたのは生み出した家族だ。夢のために妻と幼い子供を置いて出て行った。自らの決定に責任を果たせなかったという点でひいひいおじいちゃんは責められても仕方がない。しかし、決定したのはひいひいおじいちゃんだけではない。その妻はひいひいおじいちゃんが音楽を生業としていたことを知っていて、それも込みで結婚している。夢を追う人との結婚に安定した家族生活を望むことは間違っていないだろうか。そもそも、結婚の目的を安定した家族生活とするならば、夢追い人と結婚する意味はない。ただ、人間の感情や本能はわからないので夢追い人と結婚することもあるだろうし、結婚によって夢追い人が夢を捨てる可能性もある。捨ててしまったことによって、世に出なかった芸術や言葉がたくさんあると思うと悔しくて歯がゆい。

 

一方で、ミゲルが夢と天秤にかけているのは生まれた家族だ。夢が生まれた家族を不幸にするかどうかは微妙なところだと思う。親が子供になにを望むかに大きく左右される。仕送りをして孫の顔を見せてほしいと思うのか、安定してなくとも好きなことをやってほしいと思うのか、前者であれば夢が家族を不幸にするが、後者であればそうではない。子供の人数や、年齢等の状況によって変動するだろうし、はっきりと前者と後者に分かれない場合も多いはずなので、「夢は生まれた家族を不幸にする可能性がある」としか言えない。不幸にしないために夢を捨てるというのは少しコスパが悪い気がする。ただ、夢を選んでも親は自分に好きなことをやってほしいのだと驕らずに、申し訳なさや後ろめたさと付き合ってパワーに変えていったら、もう少し喜んでくれるかもしれない。

 

 

「家族か夢か」ということはこの映画のキーワードの1つかもしれないが、すべてではないと思う。それでも人生を考える上で必要な観点に違いない。自分の中では結論が出ていても、人や状況によって答えは違うかもしれない。もしかしたら両方を獲るほどのパワーがなければいけないというメッセージかもしれない。また、音楽や夢は家族を不幸にするかもしれないが、見知らぬ誰かを救う可能性があることを忘れてはいけない。そしてその人にしかできないからこそ、誰でも気軽に夢を追えるようになったらいい。

 

 

追記

序盤にトイストーリーと関係が深いものを見つけました!

・ミゲルの前を通り過ぎる車の3台目がピザプラネットの車

・ミゲルが広場に向かう時、道でバスとウッディの風船が売られていた